戦後の無頼派・坂口安吾の短編小説を、ヴィジュアリストの手塚眞監督が
映画化した『白痴』(1999年作品)が、今年で20周年を迎えます。
現代の日本映画には希有な美術的な映画であり、ヴェネチア国際映画祭をはじめ世界の映画祭で評価され、
ヨーロッパでは劇場公開もされました。戦時中の日本を描いた原作を、手塚監督は時代を限定できない
設定にして、普遍的なテーマを浮き彫りにしました。世界の終末と新たな創造を描いたこの作品の意図は、
令和のいまだからこそ強く伝わるでしょう。
1999年/手塚プロダクション製作/
35mm/Dolby Stereo/146分
推薦コメント
稲垣吾郎
(俳優)
『白痴』で目にした色彩の世界はまるで原体験のように脳裏に焼き付き、いまでは僕の美意識の礎となっています。
当時は背伸びをして観ていたけれど、今見ると、すとんと心に染みわたる。
何年かおきに見返しては、自分自身を見つめることができる作品だと感じます。
僕が出演する映画『ばるぼら』に続く道は『白痴』から始まっています。
岩井俊二
(映画監督)
主人公の男と白痴の女。
二人が接触するシーンはルネサンスの名画を直に触れるような美しさだった。
帝国の歌姫は真の主役かも知れない。彼女の狂気、秘めた葛藤、そして溢れる涙に心奪われた。
スプツニ子!
(アーティスト/東京藝術大学デザイン科准教授)
虚構ではなく真実と共に生きることを選んだ時、人間は迷い、不安を抱え、
行きつく場所が見えにくくなっていても、真実が安心のできる場所に導いてくれる。
不和の広がっている現在、心に刺さります。
津田大介
(ジャーナリスト/メディア・アクティビスト)
退廃の空気色濃い世界観に散りばめられた「謎は謎のまま」が極めて贅沢な映画。
人の世は、諦念と執念、そして狂気と正気ただその繰り返しなのかもしれないと思わせる怪作。
Story
過去とも未来とも思える終末戦争下の日本。映画制作を志す伊沢(浅野忠信)は歪んだ長屋が並ぶ場末の路地裏に間借りをしている。
娼婦やスリ、大陸浪人たちが自堕落な生活を送る路地で、隣に住む木枯(草刈正雄)とその妻、サヨ(甲田益也子)の無垢な生き方に、伊沢は羨望と畏怖の念を抱いていた。
テレビ局「メディアステーション」にアシスタントディレクターとして勤めている伊沢は、戦意高揚番組と安直な歌謡番組の仕事に幻滅していた。現場は視聴率70%を誇るカリスマ的アイドル銀河(橋本麗香)のわがままな言動に振り回されてばかりだ。伊沢は粗暴なディレクターの落合(原田芳雄)と、銀河のサディスティックな仕打ちの標的となり、身も心も打ちのめされる毎日だった。
そんなある日、伊沢の部屋の押し入れに、隣家のサヨが潜んでいた。伊沢を求めての行為だった。その夜から、サヨを押し入れにかくまう秘密の生活が始まった。戦争にも仕事にも疲れ果て自殺願望に取り憑かれていた伊沢にとって、サヨの存在だけが救いだった。
しかし、そんな生活にも容赦なく空襲の脅威は訪れる。伊沢の住む路地の上空にも爆撃機の影が現れ、街は激しい爆撃と焼夷弾によって炎に包まれる。覚悟を決めていた伊沢だったが、ついにサヨの手を取り燃え盛る炎の中を駆け抜けてゆくのだった。
極限の状況で、恐怖の果てに彼らが見えたものは…。
各界からのメッセージ
岡野玲子
漫画家。『ファンシイダンス』『陰陽師』ほか
何とも慣れぬ映画である。
救いがたくくだらないお笑い映画以外で涙を流したことのない私であるが、まったく悔しいことにこの映画は、何度見ても慣れずに落涙してしまう。しかし、恒松正敏さんの描く自らの中を見つめる美しい女の顔と、魂の奥底を揺さぶるような、橋本一子さんの音楽が流れるタイトルロールが始まった途端、内容も見ぬうちにじいんと来てしまうのだ。
そんなことにはお構いなしに、画面は常に冷静である。冷静でありながら、そうして、恐らく、ほとんどの観客が、この映画の一つ一つの画面のもつ力強さに圧倒されるという、思いがけない体験をするに違いない。
それらは、忘れてしまっていたただならぬ胸騒ぎを喚起させ、新しい表現に、世界に、挑む力を芽生えさせる。
「芽生え」。なぜ芽生えるのか。
それは、映像の持つ力もさながら、映画の根底にあるテーマが、驚いたことに、実は「母性」だからであろう。安吾の原作に「母性」は姿を見せない。それは原作者自身のトラウマか、原作の書かれた時代背景があるのかもしれない。そして、主役伊沢自身、最後まで戦争の産み出す妄眛から抜け出すことができない。
しかし、そこにいきなり、原作に登場しないアイドル、ギャラクシィを意味する名の少女、銀河が、革命の象徴たる赤と黄の衣装をまとい、戦いの女神を演じて登場する。この登場によって無灯の世界のように見えた原作に、再生の兆しが出現する。革命も「母性」の姿の一つだからだ。映画の最初の映像から最後の映像に至るまで、「母性」を象徴するシーンが何度も繰り返される。母を失った子供の泣き声から始まり、伊沢は潜在的に母を求めている。国民を増やすためのCFの中では、革命と戦いの象徴であった銀河が、今度は聖母の象徴であるセルリアンブルーにかこまれ、魂の象徴である蝶を幾つも頭にまとい、魂と肉体を結び付ける女神の象徴である花であり、またギャラクシィの象徴でもある菊の花柄のドレスを着ている。そこに原初の水の波紋が広がり産み出すものへと変化している。産みながら破壊してゆく巨大なる母性。
空襲の中、地球は巨大な卵子と化す。降り注ぐ焼夷弾は精子、だからこそその中で赤ん坊を抱いたアキが美しく光りながら落ちてくる、攻撃でありながら再生を意味する焼夷弾を見て「美しい」と感嘆するのだ。
極めつけに伊沢の心の幻想の中では、火山の中から女神が出現する。それはあたかも神話の中で、火傷によって死に至り、黄泉国の女神、黒髪大神となっていた大地母神伊弉再が本来の姿を取り戻し、復活したかのようである。
白い短髪の何と対照的なこと。では、母を求めて泣く伊沢、お前はスサノオか。小さなスサノオの声はでっかい母神にとどくのだ。その顔は、大きな自分と対面したかのように、無垢な魂をもった白痴の女サヨに瓜二つ。
そして、生命の親である女神は決して人間を甘やかさない。空襲の紅蓮の炎の中で観客までもが、実に厳しい選択を迫られる。盲目的動きに流されてゆく群衆を選ぶのか。魂の故郷に戻るため、歩むべき道を見つけて目覚め、勇気を持って再生へと一歩を踏み込んでゆくのか。
初めて試写を見た時、私は驚愕とともに涙を流しながら呆れていた。
大いなる愛が背後にあるがゆえに、これは、とても、厳しい映画である。
そしてそれは、現代であるからこそ一人一人の中に選ぶべきものが見出されるのだろう。
山本政志
映画監督。『ロビンソンの庭』『水の声を聞く』ほか
半亡霊の時期を経ることによってエルルギーを増大させた偉大な映画一本の映画を産み落とすのは、時として強大なエネルギーを必要とする。あるものは、企画を立てただけで、あるものは撮影開始予定日の数日前に、撮影途中に、ようやく完成したものの日の目を見ずに倉庫の片隅で、それらは不幸な映画の亡霊となる。映画監督は、誰しもそんな亡霊をいくつか抱えている。映画のまわりには、その何十倍もの亡霊が漂っているのだ。
手塚眞が「白痴」の映画化に取り組んでいるのを最初に耳にしたのは、随分前になる。俺の「熊楠KUMAGUSU」が撮影中断し、半亡霊化路線を歩み始めた時期だったと思う。しばらくして、資金集めが難航し、「白痴」の撮影が開始できない、という知らせが届き、以降、「白痴」は、俺の「熊楠KUMAGUSU」と、半亡霊仲間になった。手塚眞と会うと、お互いに激励しあったりもした。製作開始が手間取ると、周囲がワサワサとかまびすしい。本人は、案外お気軽に執念深く準備を進めているのだが、「ねえ、あれどーなった?」「がんばんなきゃ、ダメだよ」「大変だねぇー」と、表面的で悲観的好奇心まみれの軍団が周囲に形成される。マスコミも強烈で、取材協力を依頼しても「できた映画は紹介できるが、できてもいない映画を記事にはできない」と、大きな勘違いをしたバカ記者まで登場した事もあった。スクリーンに映されるものだけが、映画じゃない。資金集めも立派な映画創りだ。スクリーンに映し出された映画を観た後に、シャンデリアの下でカプチーノをすすりながら、「映像がなんたら、役者がなんたら、美術がこうした」と、語り合うのが仕事ならそいつは別府ラクテンチのカバの花子でもできる。できねぇか?もちろん、バカまみれの人間だけではなく、勇気を与えてくれるアドバイスをくれた人、親身になって援助してくれた人、目一杯の"いい人"にも出会える。作品がリトマス試験紙となって、バカといい人を分別してくれ、いい人は映画の魂を強化し、バカは映画に活力を与えてくれる。そんな、トンネルを抜け、亡霊からの誘惑を打ち負かし、「白痴」は昂然とスクリーン上に誕生した。
それにしても「白痴」は、なんと清廉で力強い映画だろう。映画の様々な要素を取り込みながら、透明感と強い意志が脈々と全編に流れている。マヌケな監督がやると、軽薄で表層的世界に脳をすくわれてしまう危険な領域のミュージッククリップのりや、SFタッチでさえも、「白痴」では作品世界にしっかり根付いている。いや、数百のM-TV路線よりブッ飛んでいる。なぜなら、手塚眞はそれらを的確に楽しみながらも、"今"と"未来"に対する眼差しを、倫理観とでも言っていい強固な作家魂として持ち合わせているからだ。手塚眞は、いつの時代にもはびこる醜悪なエネルギーに自由でしなやかな精神で立ち向かう。映像美、物語性、演技、語り口、知性等々、映画は統一したスタイルで語られる事が多い。しかし、手塚眞は逆に様々な要素を恐れずにとりこんでいく。さながら、様々な生物が混乱したように生息しながらも微妙なバランスを維持している原生林のようだ。そこには、整理して統合していく、現代の価値観とは異なる思考性がある。東洋的、マンダラ的と、いってもいい懐の大きな価値感がある。キリストが生まれて2000年という、本来アジアとはなんの関係もない取り敢えずの時間の区切りに、「白痴」が誕生したのは、そういった意味で象徴的ですらある。半亡霊への道を拒絶して行く過程で、「白痴」は、さらなるエネルギーを獲得してきたに違いない。それは、「白痴」の主人公が亡霊どもを拒否していく姿と重なる。観るものの心を圧倒的に揺さぶるラストの炎のシンフォニーは、半亡霊期から維持してきた自らの映画を希求する魂に宿る炎と同質のものだろう。
「白痴」は,半亡霊の時期を経る事によってエネルギーを増大させた。どの映画にも属さず、「これが私の映画だ」という志の高さは、人類に向けて放たれた壮大なテーマと共に、感服するしかない。観終わった後、俺は、全身で感動していた。俺も半亡霊「熊楠KUMAGUSU」を解放してやらなければとも、痛切に思った。手塚眞と「白痴」に関わった全ての人に、言わせてもらう。「あんた達は、エライ!!」そして、「素晴らしい映画『白痴』をありがとう」
地方での映画制作
映画『白痴』は新潟、桐生など、坂口安吾ゆかりの土地で撮影されています。単にロケ地として一方的に使うのではなく、地域に根付くコラボレーション企画として進められました。これはその後に発達する地方映画製作の草分けとなりました。
●新潟市
新潟は安吾が生まれた土地。ここに市民映画館シネ・ウインドがあります。新潟市を代表するミニシアターで、代表者の斎藤正行さんは「安吾の会」を主催されている縁もあり、『白痴』の制作を手伝う関係となりました。そこから新潟県、新潟市の多数の組織、団体が参加してゆき、文字通り街をあげて応援するイベントへ発展していきました。
河川敷にある15000 平方メートルの県有地にオープンセットを組み、舞台となる街そのものを地元の建設業者、ボランティア・スタッフの力により建築。1000人を越える市民が撮影に参加しました。クライマックスの空襲の場面ではセットを実際に爆破、炎上させる等、映画ならではのスケールで撮影されていきました。また、市民が参加する「にいがた映画塾」を創設。その後のフィルム・コミッションの設置や新潟における坂口安吾の再評価に繋がるなど、1本の映画を越えた波及効果があり、地方における映画制作の礎を築いたと言えます。
その詳細は書籍「映画が街にやってきた ~『白痴』制作 新潟の2000日物語」(新潟日報事業社刊)に記録されています。
●松之山町(十日町市)
新潟の山間部にある松之山は安吾の姉が嫁いだ先で、その村山家に安吾は訪れそこを舞台に小説『黒谷村』を書きました。元町長の村山政光(故人)は安吾の甥で、映画『白痴』の制作に全面的に協力してくださいました。実際に安吾が泊まっていた家屋(現・大棟山美術博物館)を提供いただき、ロケセットとして撮影に使いました。草刈正雄扮する木枯の邸の中はここで撮影されたのです。
●桐生市(群馬県)
桐生は安吾終焉の地。晩年の数年をここで過ごしました。「安吾を語る会」の奈良彰一を中心に映画撮影への協力が得られることになりました。古い町並みを使った夜間ロケでは撮影のために雨を降らせたり、近代的なホテルでは数十人のエキストラが着飾った衣装とヘアメイクで出演したりと、ここでも地方ロケを越えた規模で撮影が行われ、いまでも語り草となっています。
映画『白痴』のアートについて
手塚監督は映画全体を彩る象徴的な美術作品を必要としていました。偶然のように知り合った恒松正敏さんの絵画に感銘を受け、恒松さんに映画の美術を依頼します。インディーズ・バンド「フリクション」の元ギタリストとして知られていましたが、前衛的な画家としても揺るぎない地位にいました。恒松さんが映画のために作った作品はセットや小道具だけではなく、タイトルバックにも使われましたが、火災の場面では作品そのものを本当に焼いてしまうという思い切った演出もなされました。
恒松正敏メッセージ
映画『白痴』―、僕が初めて映画美術にかかわりを持った作品だ。
劇中クライマックスシーンで作品が燃え上がる。(―むろんカントクとは合意の上だ。)
フィルムの上で何度もくり返し自分の作品が燃え上がるシーンに出会うことができる。
しかも今回デジタル化。なんとぜいたくなことだろう。
それは意識の深部からの映像だからではないかと思う。
映画『白痴』の音楽について
手塚監督は橋本一子の音楽に出会った瞬間から『白痴』のサウンドトラックを頼もうと考えました。
撮影前、すでに作曲されたメロディーを監督は出演者やスタッフに配り、映画のイメージの参考にしてもらい撮影がなされました。
監督は橋本さんと共にスタジオに入り、すべての曲の録音に立ち会いました。橋本さんは映画のために多数のオリジナル曲を書いただけではなく、エリック・サティ、ムソルグスキーといった作曲家のアレンジも行いました。加藤道明さんはサティのピアノ曲をギターで演奏するという困難な課題に挑戦しました。映画のクライマックスに流れる『展覧会の絵 ~キエフの門』は、橋本さんの編曲のもと、群馬交響楽団が演奏し、コンサートホールで録音されました。
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映画『白痴』
オリジナル・サウンド・トラック
映画『白痴』のためのサウンド・トラックから選びだされた曲の数々。
アイドル銀河(橋本麗香)が歌うアジアンPOP軍歌『パワー・オブ・ラブ』も収録されています。
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橋本一子メッセージ
1999年…2019年
20年の歳月はゆっくりでもあり、あっという間でもあり、時のゆらぎと恐ろしさを感じる。
「白痴」という1999年にはフィクションの「近未来」であった世界が、2019年の今「現実」になろうとしている。
手塚眞さんとは短編映画や実験映画、ライヴとの即興などたくさんの映像と関わらせていただいているけれど、その映像美は突出している。ただ美しい、妖しいという言葉では表すことができない不安や暗さや恐ろしさを内在している。
それは意識の深部からの映像だからではないかと思う。
手塚眞の意識の深部で繋がっている私たちすべての意識の深部から紡ぎ出されたこの映画は今新たに「今」でしか感じる事ができない感覚を、世界が崩壊してゆく現実の恐ろしさを観る者に突きつけてくるのではないか。
「白痴」で奏でた音楽は私の深部で蠢き響く私の存在が溢れ出たものだ。
幸せで恐ろしい体験だった。
もう一度この世に放たれる天使なのか悪魔なのか?確かめてみたい。
http://www.najanaja.net/
映画『白痴』のVFX
銃後とはいえ戦時中の物語である『白痴』は、空襲の場面をはじめ手塚監督のイマジネーションから生み出された幻想的な場面がいくつもあります。日本映画では当時まだあまり使われていなかったCGIや実写とのデジタル合成など先鋭的な映像を使っています。
クライマックスの空襲の場面では、実際のオープンセットが特殊効果によって爆破されただけではなく、ミニチュア撮影、CGIなどカット毎に複雑な技術が使われています。
バーチャル建築家の異名を取っていた故・澤井健は、舞台となる町並みを瓦1枚に至るまで正確にCGIで再現。カメラの動きひとつにも有機的な動きを取り込むなどこだわりを見せました。
劇中にある銀河のショーの場面は松木靖明が担当し、モーション・キャプチャーされたダンサーの動きから数千人のダンサーをデジタルで創造。フルCGIの背景に配置するなど当時の技術の限界を越えた制作が行われました。
しかし、それらすべての特殊技術にかけられた経費はたった1000万円でした。
なお、ヴェネチア国際映画祭で受賞した「デジタル・アワード」は技術の賞ではなく、そうした先鋭的な技術を効果的に使った作品に与えられるものでした。
劇場情報
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